鑑真和上と空薫物のはなし
鑑真和上と空薫物
奈良時代後期になると、仏に供える香と区別して日常生活のなかでお香を楽しむようになります。やがて平安時代には、このように香りを楽しむお香のことを「空薫物(そらたきもの)」と呼び、貴族たちの間で部屋や着物に香をたきしめる風習が盛んになりました。
「薫物(たきもの)」とは、香木ではなく、数種類の香料を練り合わせたものです。香料を微調整しながら自分オリジナルの薫物を創作することは、平安貴族にとって教養や財力、センスの良さを表現するものでもあったことは、以前に「六種の薫物のはなし」でも紹介したとおりです。
さて、この薫物の調合法を日本に伝えたのが、鑑真和上です。鑑真和上といえば、日本への渡航を志したものの五度失敗し、その間に失明という不遇に見舞われながらも、天平勝宝5年(西暦753年)、六度目の渡航で来日した唐の高僧で、日本の律宗の開祖です。
鑑真和上は、仏教の守らなくてはならない決まりである「戒律(かいりつ)」を日本に伝えました。本来、戒律とは高僧より授けられるものでしたが、鑑真和上が来日するまで日本には戒律を授ける資格を持った高僧がおらず、日本の僧たちは戒律を受けることができませんでした。
鑑真和上は東大寺に初めて戒壇(戒律を授けるためのための場所)を設け、聖武上皇らの帰依を受け、唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建して戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
鑑真和上は戒律や薫物の調合法だけではなく、書道や彫刻、薬草などへの造詣もとりわけ深く、日本にこれらの知識ももたらしています。
なお、鑑真和上が伝えた薫物はやがて貴族の趣味として確立し、後世において「六種の薫物(むくさのたきもの)」を生み出したり、薫物の優劣を判定する「薫物合(たきものあわせ)」といった遊びを生み出し、現在の「香道」のルーツとなっていくのです。
もしも、鑑真和上が苦節を乗り越えて日本に来てくれなければ、仏教だけでなく香文化の発展も無かったのかもしれません。